バナナを切りました

『できるから価値がある?』 子どもへの声かけ 子育て×自分育て

こんにちは。
神戸シェアハウス和楽居(わらい)のいのじです。

今気になっていること。

僕の言動が、どう子どもの成長に影響を与えるんだろう。
僕は、子どものどんな心を育てようとしているんだろう。
この子にどんな風に育ってほしいんだろう。

ここ最近、うちの子(1歳10か月)の成長がめまぐるしい。

しゃべる
着替える
トイトレ(トイレトレーニング = 自分でトイレへいく。脱ぐ。よじ上る。座る。おしっこする。紙で拭く。手を洗う)
走る
真似っこする
「もう1回やって」とポーズを取る

トイレ 1人でできるもん
トイレ 1人でできるもん

どんどんできることが増えているように見える。

声かけの現状 と 自分を動かすもの

僕が子どもに声かけをする。

「うわー、よくできたね。」

夫婦での会話で
妻「今日は ちょうちょ って言えたよ。ほら。」
娘「ちょうちょ」 「ちょうちょ」
僕「ちょうちょ 言えるようになったん! すごいね!」

自分の発言のベースとなっているのは? 価値観はどうなってる?

できた、ってなんだ。
言えた、ってなんだ。
すごい、ってなんだ。

言おうとしている、その姿が美しい。
何かをこの子なりに、創意工夫して、チャレンジして、結果はどっちだっていい。

うまくできても、うまくできなくてもいい。

そんな風にも感じている。
できても、できなくてもいい。

頭の中では、本気でそう思っている、と自分で思っていた。
でも言葉として出て来るのは

「できたね。」「すごいね。」

褒めて伸ばす、とかそういう事が僕はやりたいのか?

できても、できなくてもいい。
本気でそう思っているのか?
そうなっているのか?

そう「思おうとしている」のか?
そう「なっている」のか?
この違いは大きい。

親である自分そのもの。
37年間の自分自身の知識・経験で染み付いたものが、自分の言動のベースとなっている。

「できても、できなくてもいいよ。」
そういった眼差しで子どもを見つめていたい。

「こんな風になったらあかん」
という「あかん」がない。「あかん」という感情が沸いて来ない。
そんな風になりたい。

でも、自分が仕事上だったり、趣味を通じてだったり、
何か人とやりとりする間では

「できること を評価する」
「できること で認められようとする」
「できたこと を人に伝えたい」
「うまくできなかったこと は、あまり人に言いたくない」

という心の状態が頻繁に起こっている。

うまくできないと、人に迷惑をかける?
失敗すると、人から責められる?

全て自分の意識・観念で物事を見ている。

実際は?

意識・観念ベースで生きている
『できることがすごい』
→ そのベースで動いている
→ うまくやろうとする
→ うまくできない人に悪感情が沸いてくる。

『やるべきことがある』
→ そのベースで動いている
→ やるべきことをやっていないと自分が落ち着かない
→ やるべきことをやっていない人をみると悪感情が沸いてくる。

そんなベースで動いている僕が、
本当に「子どもの存在そのものを価値ある存在だ」って感じられているんだろうか。
子どもに対しては、割とそんな風にも思う。

自分自身に対しては?

できても、できなくても、自分の価値は変わらないなー。
でも「人からどう思われるか」を気にしている自分もいてるよな。

自分の中がどうなっているのか。

どんな時、人は心が動くか

シェアメイトとのやりとり。

あるシェアメイトがご飯を作ってくれた。

彼女の作ってくれる料理はいつも美味しい。

「おいしい。ありがとう。」
「やっぱ●●ちゃんはすごいね。」
って僕が言ってる。

—————–

そしてまた別の時、
また別のシェアメイトが
「朝ご飯作るから、wife daughterと一緒に食べにきて。」
と誘ってくれた。

ベーコンエッグとトマトベースのスープ。
「イギリスの母から教えてもらったんだ。
何回か練習した。
おいしいか分からないけど。」

その朝ご飯は、普通に美味しかったんやけど、
味がおいしい・おいしくない、とは別のところで、心底感動をしている自分がいた。
彼は、あまり料理をしない。キッチンに立つ事があると珍しい。
そんな彼が、僕ら家族のために、練習までして、この時間を作ってくれたんだ、という気持ちが嬉しかった。
じんわりと心が温かくなった。

よくご飯会でご飯を作ってくれるAkちゃんに対しては、
「おいしく食べてほしい、って思って作ってくれたんかな?」
っていう、相手の気持ちに目が向いてない自分がいたなー。

って言うても、それも想像することしかできへんのやけど。

「できること」=「価値あるもの」いつからこうなった?

作ってくれた料理がおいしい、おいしくない。
そういう結果の部分で、人を評価する、ってことを普段はやってるように思う。
そして相手への感謝の気持ちを伝えるために「素晴らしい」「すごい」「おいしい」とか褒める言葉を使ってきた。

少しずつ心の勉強をしてきてから、
・ 結果 を褒めることはしたくないな
・しないようにしよう
としても、
自分の中では、無意識に、このような思考回路が働いてる。
気付かないくらいに自然と。

自分は、いつからそうやって
結果
を価値あるものして、見るようになったんだろう。

僕の親、育ての親(おばあちゃん)は、
僕ができても、できてなくっても、
僕の存在そのものをいつも肯定してくれていたように思う。
いつも優しく見守ってくれていた。
行為 としては、「褒める」とかしてたかもしれないけど、
僕が満足げに何かに取り組んでいる様子そのものを喜んでくれていたように感じる。

子どもへの眼差し
子どもへの眼差し

できるから愛される。
できないと愛されない。

そういう感情は、家庭の中では幼少期から感じた記憶がない。

それなのにいつの間にか、、、

学校では、一番を取りたがってなー。
小学校ではかけっこ。
一度、クラスで一番タイムが速かったら、
それを維持したくなってた。

部活(中高では柔道部)では、
競い合ってたなー。
負けたら悔しい、とか。

一番じゃないと気がすまない、っていうのは
校内、地区内を出ると、
「自分より上がいる」
って、割とすぐに受け入れた感じはしてたけど、

未だに
「あの頃は、自分が一番速かった」
「あの頃は、自分が一番強かった」
っていうことを誇らしく思っている自分がいる。

できた からすごいのか?
その時に褒められた快感・賞賛を手放せないのか?

記憶っておもしろいね。

「なんにもできないやつ」
って人から思われたら、どうなるの。

そんな事で、大切な目の前の人たちは離れてしまう、と思ってるの?
自分に問う。

自分自身の中で、

できても・できなくってもいい

できないやつ と思われたら「あかん」ってことはない。

そういうベースに立って、

できなくちゃ! やっぱりできた方がすごい!
という意識・観念から離れたところをベースになってくると、

子育てについても、
「この声かけは、したくない」
「こんな声かけをしよう」
って、無理にやる感じもなく、

いつも
娘の心そのものに目がいくようになるんだろうなー。

子育ては、自分育て。
子ども観察は、自分観察。
子育てを通じて、自分のガチガチに固まった思考回路・心の癖を知る。

じっくりとやっていこう。

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  1. Hana

    子育て中、心理学を月一回5年ほど習っていた時
    Doing何かをやった時
    Being存在そのもの
    と習った。
    Doingを褒めてもいいけど褒めすぎてもいけない、叱る時は叱る。
    Beingを褒めて、絶対けなさない。
    と習った。
    小さい時に受けた言葉が後々の人生に影響をもたらすって思ったらほんま言葉かけ大切だね。

    • いのじ

      はなさん。
      コメントありがとうございます。
      ほんとにね。
      正解のない子育て、の中で
      自分が、我が子をどう見ているか。
      どんな風に育ってほしいか。

      本当にはっきりとそれが見えてるかどうか。
      自分の行動が常にその目的に沿っているか。

      いつの間にか見失って、
      自分のエゴを優先していたり、
      無意識に、なんか違う事やってたり。

      自分の生きる目的、もなんだろう。

      そこを知っていきたいなー。

      • Hana

        子育ては最大のギフトだし試練かもしれない!
        しかし得るものは大きい。
        自分の分身のようで1人の人間、
        繋がっているようで、独立しているよう。
        母親が今でも責任感じたり心配するように一生親になるために子育てに終わりはないのかもしれない。
        一生の仕事。
        やりがいのある。
        たくさんの人たちの手を借りてください。
        いい出会いが豊かにするように…
        そういう関係性を作って行くことが私たちの最大の仕事かもしれない。

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